🪵 G(爺ィ)の徘徊について

気がつけば、朝のこと、昔のこと、ラグビーのこと、ちょっとした気づきや、どうでもいいような独り言をあちこち歩きながら拾っている自分がいます。

これまでは「妄想」という名前の棚に置いていましたが、
最近の文章はどうも、頭の中だけではなく、
足で歩きながら拾ってきた“徘徊の言葉”に近いようです。

目的もなく、寄り道しながら、
気になったものをそっと拾ってくる。
そんな歩き方のほうが、今の自分にはしっくりきます。

というわけで、次の記事から
この棚の名前を 「G(爺ィ)の徘徊」 とします。

過去の記事はそのまま残します。
あの頃の“わざとらしさ”も含めて、
裏庭の地層として静かに置いておきたいからです。

これからも、徘徊しながら拾った言葉を
ぽつりぽつりと置いていきます。

🎴 G (爺ィ)の妄想と徘徊

日々の散歩で拾ったこと、ふと浮かんだ妄想、朝のノートに書き散らした言葉たち。

ここは、そんな“爺ィの徘徊ログ”を置いていく場所。

形になる前の創作の種、どこにも行き場のない思いつき、人生の寄り道で拾った小さな光。

赤パン33ドットコム (akapan33.com) が“作品の本丸”なら、ここは“裏庭”。

気楽に歩き回りながら、妄想を育てていく。

市場を支える鉄の足跡

セリ落とされた「命」を運ぶのは、使い込まれたフォークリフトだった。

塗装の剥げや錆のひとつひとつに、毎日の労働の重みが刻まれている。

潮待茶屋では、頭上には「72 戸塚」「71 淀橋」などの看板が掲げられ、

それだけで市場全体の物流の地図が読み取れた。

運転席に座る男たちは、ほとんど言葉を交わさない。

それでも、身体は迷わずに動く。

セリ場から荷捌き場へ、冷蔵庫から岸壁へ、

何百回と繰り返したルートが、

まるで市場の血流のように彼らの中に染み込んでいた。

秋田送りの冷凍マカジキを運ぶ時は、

頭を落とした数本を木の長箱に並べ、氷を詰めて蓋をする。

その箱を会社のフォークリフトのカゴに入れ、

私は自分の手で荷捌き場まで運んでいた。

霧の中で手を振ってくれた仲買人の顔は、今でもくっきり思い出せる。

市場の床には、フォークリフトのタイヤ跡が幾重にも重なり、

それはまるで魚河岸の年輪のようだった。

セリが終わる七時過ぎ、

鉄の馬たちはようやく動きを緩め、

次の日のために静かに眠りにつく。

築地の朝は、

こうして“鉄の足跡”によって支えられていた。

氷霧の中に響く「声」

現在はトラック搬入が主体となったが、

かつては岸壁に横付けされた船が、

まるで巨大な胃袋のように市場へ海の恵みを吐き出していた。

汐留から引き込まれた鮮魚列車のホームも、

まだ夜が明けきらぬ時間に、

鉄の車輪の音を響かせながら市場の裏手に滑り込んでいた。

夜中のうちに保冷車へ積み込まれた冷凍マグロは、

セリの時間に間に合うように一本ずつ下ろされ、

セリ場の床に整然と並べられる。

仲買人たちは懐中電灯で尾の断面を照らし、

脂の乗り具合を見極める。

その目は真剣で、声は短く、動きには迷いがない。

この空間には、

「魚を見ている」のではなく「値を見ている」

という緊張感が漂っていた。

午前5時30分、セリが始まる。

マイナス60度で凍りついた巨体から立ち昇る白い霧が、

セリ場を幻想的でありながら冷徹な空気で包み込む。

霧の向こうから聞こえてくるのは、

仲買人たちの短く鋭い掛け声、

セリ人の抑揚のある声、

そしてフォークリフトの警告音。

そのすべてが、

「命の値段」を決める音として響いていた。

セリが終わると、

フォークリフトが一斉に動き出す。

霧の中を縫うように走り、

セリ落とされたマグロを次々と運んでいく。

その様子は、

まるで市場という巨大な生き物の血流のようだった。


築地では尻尾に小さく切り返しを入れて身質を読むが、
三崎では尻尾を丸ごと切り落として検品する。
加工場向けのランク分けには三崎方式が向いている。

東都水ビル6階からの眺望

市場の曲線に沿って並ぶトラックと、有楽町へ続く街並み。

私の朝は、東都水ビル6階の事務所から、この「巨大な生き物」の目覚めを見下ろすことから始まりました。

ここは、世界中の海から届く原料マグロの相場を動かす、戦いの最前線でした。

波除さんの斜向かい、海幸橋を渡ると築地場内。

橋の上には七味屋がぽつんと店を構え、隣には宝くじの売り場。

その向かいのビルには立体駐車場があり、私はそこに乗用車で通っていました。

始発電車ではセリに間に合わない。

だから車で来るしかなかった。

午前5時半のセリ開始に間に合わせるには、

市場の空気がまだ凍っている時間帯に、

この街に滑り込む必要があったのです。

海幸橋の欄干に手をかけながら、

場内の灯りがじわじわと点いていくのを見ていたこともあります。

七味屋の前を通ると、香りが鼻先をくすぐり、

宝くじ売り場のシャッターがまだ閉まっているのを横目に、

私は築地の“裏口”から市場の心臓部へと入っていく。

この街は、

眠っているようで、

実は誰よりも早く目を覚ましている。

そしてその目覚めに、

私は毎朝、立ち会っていたのです。


…そしてその目覚めに、私は毎朝、立ち会っていたのです。
(写真:築地の朝、東都水ビルより)

新カテゴリ『青春の地層』を追加しました。

先日公開した「誕生編」をきっかけに、
新しいカテゴリ『青春の地層』を立ち上げました。

これまで徘徊シリーズの中で、
ふとした拍子にこぼれ落ちていた “あの頃の断片” を、
ひとつの棚にまとめていくためのカテゴリです。

南砂町の原風景、伊豆大島での小学校時代、
中学の剣道、寮生活、青春の匂いが残る出来事など、
人生の地層を少しずつ掘り起こしていきます。

徘徊と同じく、順番はバラバラです。
思い出したところから、気の向くままに。

その積み重ねが、やがて “地層” になるはずです。

どうぞ気長にお付き合いください。

三日坊主って、悪いことなんでしょうか。

私は昔から、面白いことがあるとすぐに夢中になる。
学生時代のラグビーでも、
「ボールを持ったらとにかく突っ込む」
というのが自分のモットーだった。

ラグビーは、集散を限りなく繰り返す競技だ。
だからこのモットーは、意外と理にかなっている。

振り返ると、人生も同じだった。
何かに熱中して、飽きて、別のことに夢中になって、
またいつの間にか元に戻っている。
ずっとその繰り返しだ。

そして今日も、砂場で何かを作ったり壊したりして遊んでいる。

三日坊主は悪徳じゃなくて、
どうやら私の自然なリズムらしい。
それでいいのだと思う。

誕生編 〜『青春の地層』の入口として〜

昭和33年の春、私は築地産院で生まれた。

南砂町の都営アパートから、母はバスに揺られて築地まで通っていたという。

いま思えば、あの頃の南砂町は“世界の原風景”だった。

アパートの前には運河が流れ、

その向こうには大きな工場が煙を上げていた。

明治通りにはチンチン電車が走り、

裏手には貨物線がひっそりと延びていた。

線路脇にはタンポポが群れ咲き、

つくしがにょきりと顔を出していた。

風呂のないアパートで、銭湯が日常だった。

母に連れられて入る女湯。

風呂上がりに飲むピンク色やオレンジ色のジュース。

あの甘さは、いまでも胸の奥にふっと灯る。

大学を出て水産商社に入り、

配達で南砂町を再び訪れたとき、

運河は埋め立てられ、工場は宅配センターに変わっていた。

街はすっかり姿を変えていたが、

貨物線だけは昔のまま、静かに残っていた。

あの線路を見るたびに思う。

自分の“青春の地層”は、ここから始まったのだと。

今日から、この原風景を入口にして、

少しずつ、自分の地層を掘り起こしていこうと思う。

もうすぐ黄色パンツ(イエローオーシャン)

つい最近、還暦を迎えた(時間の流れは速い)。
なのに――よせばいいのに赤パンラグビーを始めた。
それまでは「走ってりゃそのうち何とかなるだろ」と思っていたし、

ケアなんて一度も真面目にやってこなかった。

ところが現実は残酷だ。

勇んで練習や試合に参加したものの、身体は蝋人形のように動かない。

20代に痛めた左膝はズタボロで、リハビリに三年近くかかった。

今でも全力疾走や正座はできない。

「こりゃ筋トレやランニングのあとにアイシングせなあかんぜよ」

と、ようやく気づいて Amazon でアイシングできるサポーターをポチッと注文した。

すげー泥縄。

ほんま、いまさら何よ。

ついでに、ポチッとした勢いで

妙にグッとくる雑誌の表紙を見つけてしまい、

それも一緒に買ってしまった。

ホームページやブログで、

すげ〜ツマラン文章を垂れ流すようになって二十数年。

自分勝手でテキトーな文体は、もう変わらないと諦めている。

それでも、こんな表紙に惹かれてしまうあたり、

これぞ究極の “いまさら何よ” なのかもしれない。

部屋回り

大学の寮には、よく「部屋回り」というものがあった。

今ならケータイで危険を察知して回避できるし、

そもそも寮は個室が当たり前だろう。

私が学生だった頃――かれこれ半世紀前――は、

4人部屋で、その“災難”は日常茶飯事だった。

寮内では、部屋単位や運動部単位で酒盛りが頻繁に行われ、

覇気のある先輩方が度胸試しに、

寝静まった寮生の部屋へ突然やって来る。

そして、直立不動の「自己紹介」。

夜中に叩き起こされ、声を張り上げる。

今思えば、あれも妙な儀式だった。

私は2年生の終わりに寮を出て下宿したので、

その後は「部屋回り」とは縁が切れた。

だが今となっては、いい思い出だし、

自分を磨く鍛錬場でもあったのだと思う。

まあ、今これをやったら、

一発でコンプラ違反だろうけれど。

昼休みの腕立て伏せ 

高校は男子だけの全寮制だった。

大食堂で全学年が三度の食事を一緒にとる光景は、

今思い返しても圧巻だ。

昼休みも全員で一斉に食べ、

先生たちも同じテーブルに並ぶ。

食事が終わると、校舎の屋上や校庭へ、

三々五々散っていく。

中庭でソフトボールをする集団。

屋上で昼寝をする集団。

ラグビー部はラインアウトの練習。

それぞれが、それぞれの場所で時間を過ごしていた。

私は剣道部だった。

一学年上のキャプテンは、昼休みになると一年生を屋上に集め、

腕立て伏せと腹筋を黙々とやらせていた。

キャプテンが片手腕立てを軽々とこなす姿を見て、

「自分も絶対できるようになりたい」

と純粋に思い、毎日熱心に筋トレを続けていた。

その姿を見ていた、剣道部ではない一年生たちが、

「食後に運動しても消化に悪いし、効果ないだろ」

と、遠回しに批判してくることがよくあった。

真剣に何かに取り組んでいると、

必ず横から茶々を入れてくる人がいる。

変わったことをしようとすると、

引きずり戻そうとする空気がある。

あの感じが、どうにも苦手だった。

でも、どうすることもできなかった。

ただ、黙って腕立てを続けるしかなかった。

今思えば、

世の中には思い通りにならないことの方が多いこと、

“普通に振る舞う”というのが実は一番難しいこと、

そういうことを最初に身につけたのが、

あの全寮制の高校だったのだと思う。

あの頃の息苦しさも、

今では少しだけ、ありがたく感じている。

俺も男だ !!

唐突に、中学時代の記憶が浮かんだ。

森田健作さんが青春ドラマで演じていた剣道男子に憧れて、

地元の警察官がボランティアで教えてくれるという流れに乗って、

私は剣道を始めた。

そのまま高校でも剣道部に入ったが、

中学の終わりに少し触れただけの私は、

町道場で鍛えられ、中学大会で名を馳せていた連中には追いつけなかった。

結局、補欠のまま終わった。

大学に入る頃にはラグビーに夢中になり、

親に買ってもらった防具も、

寮に持って行ったものの質屋に預けて流してしまった。

高校時代の剣道部には、正直ほろ苦い記憶しかない。

けれど、一つ上の先輩がよく言っていた

「苦しいときこそメチャクチャ頑張れ」

という言葉だけは、今でも胸の奥に残っている。

あれは、私にとっての priceless な一言だ。

七転八倒して、いまだに起き上がれないままのような気もする。

それでも、どこかでその状態を少し楽しんでいる自分がいる。

きっと、あの頃の“俺も男だ”という気負いが、

今の私のどこかに、まだ静かに息をしているのだろう。